コルチャック資料館


1) コルチャック先生とは/ Who was Dr. Korczak ?
2) 年譜/ KORCZAK'S HITORY
3) COMMENT/ コルチャックの子ども時代
4) 国連「子どもの権利条約」の成立におよぼしたコルチャックの理念
5) 連載/ ヤヌシュ・コルチャックと子どもの権利…石川道夫 (藤田保健衛生大学助教授)

コルチャック先生とは?
(Who was Dr. Korczak?)

 ショパンやキュリー夫人を生んだポーランドに、もう一人、忘れてはならない人がいます。平和を願い、子どもの権利を訴えたヤヌシュ・コルチャック先生です。
 本名は、ヘンルイック・ゴールドシュミット。医師でありながら教育者として、子どもたちと共に生きた人です。
 裕福なユダヤ系ポーランド人家に生まれながら、全生涯を孤児救済と子どもの教育に投身。ポーランド人孤児院とユダヤ人孤児院の二つの設立に力を注ぎ、その運営にあたりました。また、数々の教育書、研究書、童話、戯曲、新聞、ラジオ放送を通して子どもの福祉と権利を訴え、自らそれを実践しました。
 1942年8月、ナチス弾圧下のポーランドにあって、多くのユダヤ人が絶滅収容所に送られるなか、コルチャック先生と子どもたちにもその機会がやってきました。しかし、高名であったコルチャック先生には助命の特赦があたえられましたが、彼は「子どもたちも同じように扱われないなら、私は子どもらと一緒に運命を共にします」と、その特赦をもしりぞけ、ユダヤ孤児2百余名に同行し、トレブリンカ収容所で非業の死を遂げました。
 彼が考えていた子どもの理想は、死後47年にして国連で「子どもの権利条約」として実現されました。日本も1994年に批准国となっています。→「子どもの権利尊重」案を参考

年譜 (KORCZAK'S HISTORY)
1878年
当時、ロシア領のポーランド王国・首都ワルシャワの高名なユダヤ人弁護士の家に生まれる。本名 ヘンルィック・ゴールドシュミット。

1896年(18才)
ワルシャワ大学医学部へ入学。当時、反ロシアとして非合法の「さまよえる大学」にて学ぶ。また、ワルシャワ慈善協会で非合法の教育活動に参加。ペンネーム「ヤヌシュ・コルチャック」とし、2年後、戯曲「いかなる道を」でパデレフスキー賞を得る。

1904〜1905年(26才)
日露戦争勃発。ロシア軍医として中国東北部へ従軍、戦争の悲劇を目撃する。第一次ロシア革命(〜1907)。ロシア領のポーランド王国で革命運動が起こり、ポーランド人の独立運動強まる。

1906〜1908年(28才〜30才)
貧困の中、ベルリン・パリ・ロンドンへ医学研究のため留学。

1909〜1910年(31才〜32才)
ユダヤ人、ポーランド青少年のサマー・キャンプ教員として活躍。

1911年(33才)
ユダヤ人孤児施設「孤児たちの家 ドム・シュロット」をワルシャワ市内に設立。孤児院長となる。

1914〜1918年(36才〜40才)
再びロシア軍医としてウクライナ前線へ従軍。キエフでマリナ・ファルスカ女史の児童施設救済に関与する。ポーランドの経済危機深刻化する。

1917年
ロシア2月革命。10月革命。ソビエト共産政権成立。

1918年(40才)
教育書「子供を愛するには」を出版。ポーランド独立。

1919年(41才)
ポーランド人孤児院「僕たちの家 ナシュ・ドム」をマリナ・ファルスカ女史と設立。

1920年(42才)
ポーランドでの反ユダヤ暴動、活発になる。
ソビエト対ポーランド戦争。コルチャック再び戦争へ。今回はポーランド軍医として召集される。当年、母ツェツィリア死去。このころよりユダヤ人のパレスチナ移民増す。

1923年(45才)
童話「王様マチウシ汾「」「孤島の王様マチウシ」を出版。

1924年(46才)
子供の読物「小さなジャックの破産」出版。
当年、国際連盟は第一次大戦の犠牲となった年少者救済を目的にして「子供の権利宣言」をする。いわゆる「ジュネーヴ宣言」。

1925年(47才)
子供の読物「もう一度子供になれるなら」を出版。

1926年(48才)
子供向け新聞「Maly Przegland」(小評論)発行。

1929年(51才)
世界大恐慌始まる。ポーランドも経済危機。「子供の権利の尊重案」(エッセイ)発表。

1931年(53才)
コルチャック、ヒットラー台頭を予言する劇「狂人達の議会」上演。

1933年(55才)
ヒットラー台頭、ドイツ・ナチ政権成立。 反ユダヤ運動がヨーロッパ全土に広がる。

1934年(56才)
コルチャック、移住を考えパレスチナへ旅行。

1935年(57才)
ナチスによる反ユダヤ、ニュールンベルグ法が公布され、ユダヤ系ドイツ人市民権を奪われる。コルチャック、ポーランド国立放送教育番組で「老博士のお話し」をする。

1936年(58才)
コルチャック2回目のパレスチナ旅行。ユダヤ対アラブ問題、また、愛するワルシャワを見捨てることができず、ユダヤ孤児院の移住を断念。ラジオ放送「老博士のお話し」及びポーランド人孤児院での仕事をユダヤ人であるとの理由で中断させられる。当年、スペイン内乱始まる。

1937年(59才)
コルチャック、ポーランドの文芸アカデミー賞受賞。

1939年(61才)
9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻。第二次世界大戦始まる。コルチャック、ワルシャワ防衛の特別放送「危機に臨んで」を行なう。9月17日、ソ連軍ポーランド侵攻。ポーランドはドイツとソ連により分割占領される。

1940年(62才)
イギリス軍ダンケルクより敗退。フランス占領される。9月、日独伊三国同盟なる。コルチャック、孤児たちと最後のサマーキャンプをすごす。
11月、ドイツ軍ワルシャワ中心部にワルシャワ・ゲットーを完成。そこに、コルチャックと200余名の孤児たちを含めた、50万のユダヤ人難民をとじ込める。
飢餓地獄がゲットー内で始まる。

1941年(63才)
6月、ドイツ、ソ連に宣戦、全ポーランドを占領。 
12月、日本の軍真珠湾攻撃。太平洋戦争はじまる。

1942年(64才)
1月、ナチス指導者たち、ヴァンゼー会議にて「ヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅政策」を決定。直ちに実行に移される。
5月、コルチャック、「ゲットー日記」を書きはじめる。
7月、ホームでタゴールの「郵便局」を上演。
7月22日、ワルシャワゲットーからトレブリンカ絶滅収容場へのユダヤ人移送はじまる。
8月6日、コルチャックと孤児たち 200名がトレブリンカへ送られる。

COMMENT

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国連「子どもの権利条約」の成立におよぼしたコルチャックの理念
コルチャック先生による「子どもの権利の尊重」

 1959年の国連での「子どもの権利に関する宣言」、および1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)には、コルチャック先生が、子どもの立場から主張してきた「子どもの権利の尊重」の理念が深く影響しているといわれております。
  以下、コルチャック先生の考えを抜粋してみました。

  • 子どもは愛される権利をもっている。自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。「愛」は 必ずや返ってくる。
  • 子どもを一人の人間として尊重しなさい。子どもは「所有物」ではない。
  • 子どもは未来ではなく、今現在を生きている人間である。十分に遊ばせなさい。
  • 子どもは宝くじではない。一人ひとりが彼自身であればよい。
  • 子どもも過ちを犯す。それは、子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない。
  • 子どもにも秘密を持つ権利がある。大切な、自分だけの世界を。
  • 子どもの持ち物や、お金を大切に。大人にとってつまらぬ物でも、持ち主にとっては大切な宝。
  • 子どもには、自分の教育を選ぶ権利がある。よく話を聞こう。
  • 子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったオハジキ一つであっても、また死んだ小鳥のことであっても。
  • 子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから。
  • 子どもが自分たちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれよう。
  • 子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福無しに、大人の幸福はあり得ない。

藤田保健衛生大学・石川道夫
連載 ヤヌシュ・コルチャックと子どもの権利 (その2)

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